
●クリスマス協奏曲 コレッリ
イタリア・バロック後期の作曲家アルカンジェロ・コレッリ(1653〜1731)は、ヴァイオリニストとして成功したのち多くの作品を残しています。 その代表作としては、ヴァイオリンソナタ「ラ・フォリア」とこのクリスマス協奏曲があげられます。この協奏曲の最後の楽章には、キリスト降誕の日に牧人たちが笛を吹いたという聖書の記述にちなむ田園音楽(パストラーレ)が配され、「キリスト降誕の夜のために」と自ら記しています。
●ピアノ協奏曲 第2番 ショパン
フレデリック・ショパン(1810〜1849)はポーランドに生まれ、20歳でワルシャワ音楽院卒業後は、ウィーン、シュトゥットガルトなどを経てパリに行き、39歳で亡くなるまで生涯の大部分をフランスを拠点に活躍しました。
2つのピアノ協奏曲はポーランドにいた18歳~20歳の頃に書かれ、ショパンとしては比較的初期の作品です。第2番が実は第1番よりも先に書かれたという話は有名です。
ショパンは、ワルシャワの音楽院に在学中だった18歳の時にドイツのベルリンに旅行しました。熱烈なオペラファンだった彼は、そこで、以前から観たかったウェーバーのオペラ「魔弾の射手」 などに触れます。この旅行を通して「ピアニストとして成功するには協奏曲を書かなければ!」と実感し、ポーランドに帰国直後にこの「へ短調協奏曲」に着手します。
第1楽章の冒頭、オーケストラの部分には、当時ショパンが好んでいたオペラ「フィガロの結婚」や「魔弾の射手」にそっくりのモティーフが現れるなど、ベルリン旅行で受けた刺激が生かされています。第2楽章にはショパンの初恋の女性、コンスタンティア・グワトコフスカへの思慕が現れていると、ショパンは親友への手紙で告白しています。音楽院の声楽科の学生であったコンスタンティアは、美人だけど誠実さのない女で、結局この恋愛は成就しなかったようです。
第3楽章は祖国ポーランドの舞曲のリズムで書かれ、「マズルカ」を想起させます。ショパンの愛国心の表れと言えるでしょう。
しかし、ショパンは間もなくポーランドを離れ、2度と祖国に戻ることはありませんでした。
若きショパンの青春の1曲です。
●ウィンナワルツとポルカ
ワルツは農民の中から生まれたダンスで、19世紀初めまで貴族の間で踊られていた手のみ触れるダンスと違い、男女が接近して踊るという点でひんしゅくをかっていました。ところが台頭してきた市民階級の人たちが、貴族の舞踏会をまねて各所で舞踏会を開くようになると、あっという間にワルツは広まりました。次第に貴族たちもワルツを踊るようになり、ウィーンの宮廷でさえも、ワルツを踊ることが許可されました。
また、ポルカは1830年頃にチェコで始まった民族音楽で、速い2拍子のものや、伝統的な曲マズルカにポルカの雰囲気を載せた3拍子のものもあります。
この時代、多くのワルツ作曲家が活躍し、次から次へと舞踏会の音楽が作られてゆきます。 中でもシュトラウス一族の活躍はめざましく、ヨハン・シュトラウス1世(1804〜1849)とその息子たち、ヨハン・シュトラウス2世(1825ー1899)、ヨーゼフ・シュトラウス(1827〜1870)、エドワルト・シュトラウス(1835〜1916)は多くの名曲を残しています。 これらの音楽はウィーンに留まらず、チャイコフスキー、ドヴォルザーク、スメタナを初め多くの作曲家に影響を与えました。
・ウィーンの森の物語 ヨハン・シュトラウス2世
ウィーンの西の郊外に広がる美しい緑地帯「ウィーンの森」の情景をとらえた、演奏会用のワル ツです。序奏では狩りの角笛、小鳥のさえずりに続いて、ツィター(南ドイツからオーストリアの民族楽器)で素朴なレントラー(ワルツの原型と言われる3拍子の踊りの曲)が奏でられます。 その後の5つのワルツはすがすがしい森の空気や光が伝わってくるような作品です。 後奏の最後にツィターのメロディーが思い出すように現れて曲を締めくくります。
本日は慣例によりツィターの部分を弦楽四重奏で演奏いたします。
ヨハン2世自身は、自然の中へ出かけることに恐怖感を抱いていたとの逸話が残っています。
・とんぼ ヨーゼフ・シュトラウス
ヨハン2世の弟ヨーゼフは、ザルツブルグ近郊の山にハイキングに出かけた際、川の土手で優雅に群れ飛ぶトンボを見て着想を得ました。スイスイと飛ぶトンボの動きを見事に音で表現していて、初演の時は喝采を浴び、4回もアンコールされたそうです。
ヨハン2世の親友であったブラームスは、1889年エジソンの代理人から蓄音機へのピアノ演奏の録音を依頼され、自身のハンガリー舞曲第1番と共にこの「とんぼ」をレコーディングしました。 この演奏は歴史上初めてのレコーディングとされています。
・皇帝円舞曲 ヨハン・シュトラウス2世
ヨハン2世晩年の傑作で、1889年にドイツの首都ベルリンの新しいコンサートホールのこけら落としを飾った作品です。 ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とオーストリア=ハンガリー皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の臨席にちなんで、両国の親善を祝う意味で「手に手をとって」という名のワルツが演奏されました。100人からなるオーケストラの演奏は大成功でした。その後楽譜出版社の意向で「皇帝円舞曲」と改められました。
軍隊風の行進曲で始まる序奏の後、のびやかで表情豊かなワルツに移行し、4つのワルツと後奏が続き、力強く終わります。 ヨハン2世の作品の中でも雄大な曲想の作品で、気品にあふれています。
・アンネンポルカ ヨハン・シュトラウス2世
1852年の聖アンナ祭(7月26日)の前夜祭に、プラター遊園地で開催された「森の音楽会」で初演され、人気を博しました。聖アンナ祭に捧げられた曲というほかに、父のヨハン1世に音楽家になることを反対されていたヨハン2世を、応援してくれた母アンナに捧げられたとも言われています。
フランス風とも言われる、緩やかでおしゃれなメロディーが印象的です。
・憂いもなく ヨーゼフ・シュトラウス
兄と共にロシアに演奏旅行中だったヨーゼフは体調を崩し、ノイローゼ気味になっていました。妻宛の手紙には「疲れ切った心で僕はポルカ2曲を適当に作った」とあり、希望を込めてこの「憂いもなく」という楽天的なタイトルで作曲したと考えられています。
曲想も楽天的で、「はっはっは!」とオーケストラのメンバーの笑い声が入ることでも有名で、人気の高い作品です。
・美しく青きドナウ ヨハン・シュトラウス2世
後に第2のオーストリア国歌と呼ばれるようになった「美しく青きドナウ」は、元々ウィーン男性合唱協会の依頼で作曲されたもので、やがてオーケストラ版が作られました。1867年の初演はまあまあの評価でしたが、その後パリ万博で大成功、ボストンの国際平和記念音楽祭では、2万人の歌手、1000人のオーケストラ、1000人の軍楽隊によって10万人の聴衆の前で演奏されました。それ以来人々に熱狂的に受け入れられ、いわゆる「大ヒット曲」となり、今では世界で最も多く演奏されるクラシック音楽の一つです。
ドナウ川の穏やかな流れを思わせる序奏で始まり、5つのワルツと後奏が様々に転調をしながら続きます。
前出のブラームスは、ヨハン2世の継娘アリーチェから彼女の扇子にサインを求められた際、「美しく青きドナウ」の冒頭の数小節を書き、その下に「残念ながら、ヨハネス・ブラームスの作品にあらず」と書き添えたそうです。
・ラデツキー行進曲 ヨハン・シュトラウス1世
ウィンナワルツの創始者の1人、父ヨハンの最高傑作と言われ1848年に作曲されました。
当時オーストリア帝国領だった北イタリアでの独立運動を鎮圧した、ヨーゼフ・ラデツキー将軍を讃える祝典のためにわずか2時間で完成したと言われています。 やがてこの曲は国家を象徴する曲となり、現在でも国家的な行事や式典で度々演奏されるそうです。また、毎年恒例のニューイヤーコンサートの締めとして必ず演奏されます。